レナードの朝

′90年(平成2年)公開。翌年アカデミー賞受賞(作品賞)。タイトルに覚えがあるのはそのせいか。なお、直近に観たDVD2作に続き、偶然ロバート・デ・ニーロ主演作となる。但し今回は、脳炎による障害者で、何度も痙攣を引き起こすという難しい役どころ。
俳優にしろ声優にしろ、ハンディキャップを持つ役柄を演じることはあるのだろうが、そういったハンディを持つ人たちへの尊厳の思いがなければ演じることはできまい。本作ではロバート・デ・ニーロのほか多くの俳優が脳炎患者を演じているが、彼ら一人一人のそうした思いがこの映画を支えている、そう信じたい。
作中最も感動的だったのは、レナード(デ・ニーロ)が、短い“目覚”(AWAKENING。原題)が終わりに近づいているのを自覚しつつ、入院中の父を見舞いに来て出会い、想いを寄せる女性ポーラ(ペネロペ・アン・ミラー)と、病院の食堂で最後に会う場面だった。痙攣する彼を見て、病が再発し進行していることを彼女も知っている。会うのはこれが最後と告げるレナードの手を強く握り返し、その痙攣する背中を抱き、患者の弾くピアノに合わせてダンスを踊る。 こわばっていたレナードの表情が満ち足りたものになる。それを眺める患者たちの暖かな眼差し。無言のうちに語られるポーラの想い。
再び眠りの季節に戻るのなら、短い目覚めに如何なる意味があるだろう。作品を通じた問いかけが、この映画に深みを与えている。その問いに応じるかのような看護士エレノアの台詞が「命は与えられ、奪われるものよ。」人生がそうなのだ。一瞬一瞬を大切に。自分の想いに正直に。看護士として多くの患者を看取ってきた彼女の確信なのだろう。彼女は映画前半、セイヤー医師(ロビン・ウィリアムス)に対し、人は誰かの意思に寄りかかって歩いていけるとも語っている。
医師や病院の設定は、′69の時代設定の映画を90年に作ったものであり、現在と比べ批判的なことは言えないと思う。セイヤー医師は自宅で植物を生き物として接しているからだろう、動けないことをもって、意志を持たない、何も感じていないとは到底思えなかった。その確信が、事態を動かす根源となった。

2週間前に図書館から借りたDVDなのだが、漸く観ることができた。観ずに返却しないといけないかな、と思っていたが、観てよかったと思った。

リインの休日

一月ほど書いてみてタイトルをあらためました。劇場或いはDVDで見た映画や、読んだ本について書いています。(20170711ブログ名変更。人生という語が仰々しすぎて…)

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